萩萩日記

世界に5人くらい存在するかもしれない僕のファンとドッペルゲンガーに送る日記

最近読んだ本(語学関係編)

飯島 英一/日本の猫は副詞で鳴く、イギリスの猫は動詞で鳴く

うんと、タイトルは期待したんだけど、なんか論理が滅茶苦茶な気がしてダメだった。

blackとblancはどちらも同じ語源だそうで。火が燃えてる最中と燃えたあとの煤。ふーん。

いろいろ感想はメモしてたんだけど、結局、「アルファベット→少ない文字数で世界を表す→偉い」、「漢字やひらがな→沢山の種類の文字が存在する→野蛮」みたいな話かなあとか思った。うーん。

柳川圭子、しのざきこういち/日本語でなまらナイト~しのざき教授のなまらやさしい方言講座~

えーと確かこの本だったと思うんだけど、方言好き用の「ご当地AV」なるものの存在を知ってびっくりした。

日本語ジェンダー学会、佐々木瑞枝、他(たぶん)/日本語とジェンダー

スチュワーデスと教えるべきか、客室乗務員と教えるべきか、みたいな話が載ってたけど、プラグマティックに行くなら、そりゃスチュワーデスだろと思う。生徒の利便性を第一に考えるべきだろうから。たぶん、できるだけ現実に即した感じにしておいて、「まだ女性の地位が低いのです」的なことを、授業で教えるのが良いのではと。

「てよ」、「だわ」は、言文一致運動のキャラの書き分けの必要から生まれたという話が。萌え関連のマンガで、キャラの描き分けの関係で髪の色が違うようなもの?

女子が上司になると、叱る言葉が難しいらしい。女子の言葉は、(日本語に限らず)ポライトネスが高いから。なるほど。

斉藤くるみ/少数言語としての手話

ちょっと自分の無知ぶりにびっくりした。手話って、音声言語の逐語訳じゃなくて、別途の文法体系みたいなのがあるのね。なるほどというか、いままで逐語訳だと思ってたから、それって大変なんじゃないかなと思ってたのよ。

あと、目も見えず、耳も聞こえない人の、触話(という名前だっと思う)というのがあるのも知らなかった。

だから、えーと聾者の人の話だったか、上の触話の話だったか忘れたけど、手に振動があると脳の聴覚野が活性化するってのも、なんか面白い話だなと思った。

それから、耳が聞こえないことの大きなハンデとして、「いつの間にか耳に入って何となく知識になる」ということがないというのも、言われてみれば当たり前だけどなるほどと。

ただ、聾者文化の大事さはわかるんだけど、聾者が、自分の子供も聾者であることを求めるのって、ちょっとやっぱり難しい問題なんじゃないかと思った。やはりまだ、聾者は、生きにくい世の中だろうから。と、こう思うこと自体がよくないのかもしれないけどね。人口内耳を付ける人を巡る、裏切り者とまでは言わないけど、聾者文化を捨てるのか的な話もなかなか切ない。

あと、ちょっと専門用語がわかりにくかったかな。モダリティーって何?ネイティブ・サイナーも、意味がわかったのは結構読んでからだった。意識が高くない人でも読めるようになってる方が良いと思うな、こういう本は。

白川静/漢字百話 (中公新書 (500))

漢字の呪術的な側面にもっと注目しろという本。特に字形に関して、かな。字形解釈というのは大事なんだぞと。元々象形文字なわけだし。まあ、そう言われてもなあという気もしないではない。文化を守るという意味では大事だと思うけど。

いくつか「へえ」と思ったこと。

  • 若いという字は、巫女がエクスタシーを感じているさま
  • 貧乏というのは、貧しくて死体を捨てる場所もない状態
  • 眞という字は行き倒れた人。

たまに入るオヤジギャグが辛かったです。

小池和夫/異体字の世界―旧字・俗字・略字の漢字百科 (河出文庫 こ 10-1)

いろんな異体字があるようで。着と著、朗と朖、笑と咲、肉と宍。一番「へえ」と思ったのは、虫はもともとマムシのことで、蟲が本当だけど使われなくなったという話。

で、面白い話はいろいろあったけど、正直、読んでてちょっと飽きる。それはきっと、僕の意識が低いから。Unicodeの漢字のこととか、意識高い人が読めば、たぶんもっと面白いはず。

小栗左多里トニー・ラズロ/ダーリンの頭ン中 英語と語学

卍の書き順の話は面白かったけど(でも忘れた)、ちょっと、トニーさんが上からモノ言ってる気がして、感じ悪かった。

本名信行/世界の英語を歩く (集英社新書)

世界にはいろんな英語があるよって本。で、英語を学ぶというのは、たとえば以前ナンシー関さんが言ってたように「ワオ!」とか言えるようになることではなく、つまり英米文化を学ぶことではないと、そういうような話(似たような別の本と間違ってたらごめんなさい)。

いくつか面白かった話を引用。

リー・スミスイースト・ウェスト・センター教授(1983年)

When any language becomes international in character, it cannot be bound to any culture....A Japanese dosen't need an appreciation of a British life style in order to use English in his business dealings with a Malaysian....English....is the means of expression of the speaker's culture, not an imitation of culture of Great Britain, the United States or any other native English speaking country.

どの言語も国際的性格を帯びると、特定の文化に縛られるわけにはいかなくなります。・・・日本人は英語を使ってマレーシア人とビジネスをする際に、イギリスの生活様式を理解する必要はどこにもありません。英語は話し手の文化を表現する手段であり、イギリス、アメリカ、あるいは他の英語母語国の文化を模倣する手段ではないのです。

ナイジェリア人作家チヌア・アチェベ(1965年)

My answer to the question, can an African ever learn English well enough to be able to use it effectively in creative writing?, is certainly yes. If on the other hand you ask: Can he ever learn to use it like native speaker? I should say: I hope not. It is neither neccessary nor desirable for him to be able to do so.

「アフリカ人は英語を十分に学び、創作活動にまで使用することができるだろうか」という問いに対する私の答えはもちろんイエスです。他方、「アフリカ人はネイティブと同じように英語を使えるようになるか」という問いには、それは願い下げだと答えたい。そのようにすることは必要でもなければ、望ましいことでもないのです

もちろん言語を学ぶことで文化を学ぶというのは素敵なことだし、言語と文化を切り離すのは難しいと思うけれど、国際語というのは、それをやらなくてはいけないということでしょうね。だから、国際語としての英語と、母語話者が使う英語は、別物ってことでしょう。

黒田龍之助/ポケットいっぱいの外国語


この著者はとても好き。でも大学やめてたの知らなくて、へえと思ったので読んでみた。

国際語としての英語の話と、リトアニア語の話が面白かった。

全体的には、とても軽い本。

たぶん中高生とかに読んで欲しいんじゃないかな。

いろいろ語は面白いです。